画像右下の God bless Japan に注目。ありがとう、Asus。ありがとう台湾。
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Anna Brewster: Anna Forever - S Magazine by Kate Cox, Fall 2011
まず最初に言っておかなくてはいけないのは、「表現の自由は媒体を問わず尊重されなくてはならない」という大原則です。小説ならOK、漫画だとダメ、映画ならOK、ゲームだとダメということはそもそも間違いです。そこから考えましょう。
それから、『有害コミック』については興味もないし、むしろなくなってほしいとお考えの方にも、もう少し考えて頂きたいと思います。これは最近話題の、同性間の婚姻を巡るスピーチと同じロジックで考えることが可能です。「あなたにとって必要のない権利でも、切実にそれを求める人がいる」。
次の視点。一例として石原都知事は「ナボコフならいい。表現も綺麗なところがあるし」という発言をしました。ずいぶん前の筒井康隆の断筆宣言のときに浅田彰は「筒井のような二流の作家がタブーなき言語の聖域などというな」と発言。逆に小林よしのりは「筒井さんは何を書いてもいい」と擁護。
私はこの三者の発言のどれにも賛同しません。嘆かわしい思考水準だと思います。芸術的力量という曖昧な物差しをそれぞれに当てて、「この表現は自由」「これはなし」と決めることはできないのです。一流の作家ならOKという前提そのものが間違っています。
演劇の分野でもいろいろなことが起こりました。シュニツラーの『輪舞』、ヴェデキント『春のめざめ』など、二十年近くまともに上演されなかった戯曲があります。後年正当に評価された幾つかの名作の影には、知られずに消えていった作品が山のようにあるということです。もちろん作家も。
日本で起こった悲劇は、徳川幕府が女性の演じる歌舞伎を全て禁止してしまったことでしょう。国が乱れる、と幕府が感じるほどに大人気だった芸能がどんなものだったのか、我々はもう知ることができません。損害を被ったのは女性の歌舞伎役者たちだけではなく、数百年後の我々全員でもあるのです。
さて。ドストエフスキーの『悪霊』は50年ものあいだ、完全版の出版が叶いませんでした。少女を陵辱する場面があったからです。コミック規制を主張する人は、『悪霊』を十九世紀版に戻せ、ともいうべきです。やっていることは当時のロシアの役人と同じだということを、少なくとも自覚すべきです。
一流の小説家ならいいが無名の漫画家はだめだ、というロジックが通用しないのは、述べたとおり。媒体の性質や作者のレベルをもって、表現の自由に差をつけることは誰にもできないという原則を何度でも確認する必要がある。
唐沢なをき『電脳なをさん』の722号を見てみよう。ヒトラー似のへんなおじさんが「きんもーっ」の大号令のもと、都条例改正による表現規制を推進していく。ここで「きんもーっ」が出てくるのは正しい。青少年を守ろうといいながら、実は自分が気持ち悪がってるだけだろ、という批判だ。
「自分が気持ち悪いだけじゃないの?」という指摘をしたのは、私の知る限り唐沢なをきただ一人だ。そしてこれは実のところ、正鵠を得た重要な指摘なのではないだろうか。「気持ち悪い」→「一掃したい」→「(後付け)青少年にもきっと有害だよね!」というロジックで規制論が起こるのではないか?
だから、「実際の性犯罪を誘発しているか」の議論が無視されてしまう。「気持ち悪い」「青少年に悪影響を与えないはずがない」のほうが彼らにとって百万倍も大事だから。しかし、そこで立ち止まらなくてはならないのだ。本当に「有害」なのか。有害と無害の境界線を引くことはできるのか。
表現そのものに「有害性」はない、という内田樹氏の明確な指摘も参照されたい。 http://t.co/KkIrEW0W
チョムスキーのいうとおり、ヴォルテールは「自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護する」と述べた。200年も前のことだ。不快で、広い共感を得られにくい表現こそを守っていくことが必要なのだ。青少年保護を楯に自分の清潔感を守ることをしてはいけない。
児童ポルノの単純所持禁止、についても疑問提示。例えば、全裸の少年少女たちが登場する寺山修司の短編映画をビデオで所持していたら逮捕されたりするんでしょうか? されないとしたら根拠はなんでしょう? 芸術作品とポルノ作品とは誰が区別してくれるのか。
■“ぷりっぷりの海老”
それにしても、昨今の夕方の情報番組(もはや“ニュース”は一部に過ぎない)は、4も5も6も8も(首都圏のテレビチャンネル)もう、お手軽グルメものばーっかりなんだな。
ま、それが一般視聴者の求めるものなんだから、というのも、ひとつの考え方であって、テレビ屋ヒキタとしては、無下に否定はしない。
否定しない、が、しかしね、それにしても、もう、各局、回転寿司と、ラーメンと、食べ放題と、激安弁当ばーっかりでね。まー、よく飽きもせず、やるもんだ。
まあいい。で、その「飽きもせず」ジャンルに、少々、言いたいことがあるのだよ。
私個人の趣味に過ぎないのかもしれないけれど、ここ最近のVTRを見ていると、私としては、いわゆる「常套句」ってやつの多さが、ものすごく気になってしまうのだ。
たとえば、海老が出てくると、それは必ず「ぷりっぷりの海老」である。ウニが出てくると、必ず「とろーり甘いウニ」だ。実際に番組を見てみれば分かる。大盛りのどんぶりは「これでもかとてんこ盛り」だし、柔らかい肉は必ず「箸で切れそうなほどに柔らか」くて「お口に入るととろけるよう」なのだ。センテンスとセンテンスをつなぐのは必ず「さらに!」の連呼。
アホかいなと思う。
お恥ずかしい話だが、私は、まさにそうした夕方情報番組や昼番組のデスクでありプロデューサーだった。
しかし、部下のディレクターのそういう原稿には、徹底的に赤を入れたものだ。「どう美味しかったんだ」「前回の“ぷりっぷり”と、こんかいの“ぷりっぷり”はどう違うんだ」「別の表現を探せ」「ディテールを書き込め」「書けないんだったら書くな(映像だけでいいから)」「常套句を使うな」みたいなことを言い続けてきた。
分からない若手ディレクターには「“なんと”禁止」「“潜入した”禁止」、などと、具体的に禁止の文言をつくって、それを使った原稿は、即、書き直しとした。
でも、そうした努力も、やはりね、微々たるものに過ぎず、結局、テレビは常套句のてんこ盛りとなっているってわけだよ。
■ナレーション原稿の質が落ちている
一言でいうと原稿の質が落ちている。とりもなおさず、ディレクターの力量が落ちているのだと思う。ナレ原稿のことだけじゃない。それを構成する力も落ちている。
別にね、こんなの今に始まった話じゃなく、私がディレクターだった時代から、テレビってのは、お気楽なメディアであり、常套句の多いメディアだったよ。20年も前からそう。今さらイイ子ちゃんぶるつもりはない。しかし、このところのクオリティの落ちようは、そんなレベルじゃない。本当に目を覆わんばかり(いや、耳をふさがんばかり)なのだ。
話は、こんな常套句みたいな分かりやすいことだけじゃない。ストーリーの有り様自体も、このごろ特に安易でおきまりのものが目立つ。
たとえば、何かの店の「苦労して開店・開業!密着ドキュメント」なんてことだと、開店前日に必ず下らないトラブルが起きて主人公が右往左往するし(これは別にヤラセで起きているんじゃなく、ドーデモいいトラブルをあえてフィーチャリングしてるだけ)、天才スポーツ少年(サッカーでも何でも可)なんてのが出てくると、必ず「普段は普通のどこにでもいそうな小学生だが、ひとたび○○(スポーツ道具)を持つと、大変身」なんてことになる。
みーんな、従来のストーリーに当てはめてイッチョ上がり、としてるだけだ。
それぞれの人、それぞれの少年たちには、みなそれぞれの事情があるというのに。そして、その小さな差異こそに、その人となりの本質は潜んでおり、そういうことこそが、本来は面白いはずなのだ(そういうことを称して「神は細部に宿る」という言葉はある)。
ところが、そういうところをばっさりと切り落として、なんとなくコンナトコダロという形で、放送は出てしまう。
昨今、テレビが面白くなくなったとはよく言われることだが、それは必ずしも広告費が減って、テレビの予算が少なくなったからというだけじゃない。
こういうクオリティの低下が、そのままものを言っているのだと思う。








